二字No. 05春霞

 

「はあ〜」
周りに誰もいないのをいいことに、加藤四郎は大きなため息をついた。ここはイカルスの訓練所にあるイメージルームの中。辺りはうららかな春の光景である。

はあ〜。
澪ちゃんはそりゃかわいいし、本当の妹みたいに思っている。でもあの年代の子供って(というか地球人に合わせた時の推定年齢だけど)好奇心が強いから、「どうして」、「なぜ」の連発で結構大変。しかも実の親のおかげか、育ての親のおかげか、ものすごく頭がいい。おまけにこれは絶対、育ての親のせいだけど、妙な知識があり、時々子どもらしからぬことを口にする。この間だって…。

「ねえ、ねえ、しろ兄ちゃん。」
澪がパタパタと走ってきて四郎の手をとった。背の高い四郎の腰のあたりの身長しかなく、手をつなぐというよりぶら下るといった格好だ。
「何だい?」
「あのね、本に出てきたのだけど、『春霞』ってなあに?」
「えっ?」
「澪ね、調べたの。でもよくわからないの。」
コンピュータ検索をしたら、『春霞』には学術的な定義がないという。空気中の水滴などで視界が悪くなる状態が霧や靄(もや)。視界が1km未満の場合は霧、それ以上が靄。霞は霧や靄のために景色がぼやけて見える状態。
「きちんと定義してないとわからないわ。」
理解する(わかる)というよりも、感じるものなんだけどなというのは四郎の心のつぶやき。

「しろ兄ちゃんは見たことがあるの?それとなんで『春霞』なの?」
イカルスの制御された環境で育った澪には、空気中の水分というものは理解できても、それと霞はつながらない。ましてや季節による変化は教材ビデオの中でだけ見る世界だ。四郎にしたところで、『春霞』などというものを見たのははるか昔のことだ。地球の自然を回復させる作業が急速に進められ、ようやく四季が戻ってきたところだ。
「イカルスじゃダメだけど、地球に行ったらきっと見れるよ。」
「ほんと?」
「だから、いい子にしていて連れて行ってもらおうね。」
「うん」
こういうところは無邪気な子供だ。

「調べていたらこんなのも出てきたの。でも澪、よくわからないから、しろ兄ちゃんにあげる。」
地球で春霞を見るという計画ですっかり頭がいっぱいになった澪は、検索結果には興味を失ったらしい。四郎に紙片を渡して、スキップしながら去っていった。
「何だ、これ…」


春霞 たなびく山の桜花 見れども飽かぬ 君にもあるかな(紀友則 古今恋歌四)

春霞がぼんやりとたなびきかかる山に咲くあの桜のように、いっこうに見飽きないあなたなのですよ。


後れ居て われはや恋ひむ 春霞 たなびく山を 君が越えいなば(万葉集 九相聞)

後に残り居る私は、きっとあなたのことを恋しく思うだろう。春霞がたなびく山を、あなたが越え去ってしまったならば。


「はあ〜」

四郎は再度、ため息をつく。イメージルームの中、春霞の中に桜の花びらが舞う。

加藤四郎、18歳。成績優秀、人柄円満、人望厚い。でもやっぱり18歳。悩み多いお年頃。
ただ今イカルスで最終訓練中。

    3 May 2008

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