二字No.19昔日

長い航海、食べることは数少ない楽しみの1つである。限られた食材をやりくりして、大勢の乗組員の胃袋と心を満たすのは、厨房スタッフの腕と努力、そして科学の力である。

本日のメニューは肉じゃが。サイドメニューにほうれん草の胡麻和えときんぴら。じゃがいもがほくほくと色よく煮上がり、暖かな匂いが辺りに漂うと、強面の乗組員たちの顔もほころびるというものである。

「これ、何か違うような気がしないか。」

じゃがいもをうれしそうにほおばっていた加藤三郎が、首をかしげた。
「そうかあ?十分美味いと思うけど。」
隣に並んで食事をしていた山本が答えた。
じゃがいもも肉も天然ものではない。艦内で人工的に作られたものである。醤油も味醂ももちろん天然醸造のものではない。しかし科学を駆使して、ほんものそっくりの味、匂い、触感を再現してあり、見た目はもちろん、食べた感じも、言われなければわからないというくらいの仕上がりである。
「人造の材料を使っていますけど、天然ものと遜色のない出来だし、コック長の腕のおかげもあって、美味しいと思いますけどね。」
向かい側に座っている南部も言う。

「美味いのは美味いんだが、何か違うんだよな。」
加藤は釈然としないという顔である。
「そりゃお袋の味に比べたら、やっぱり違いますよ。もしかしたら、『プルースト効果』じゃないですか、隊長。」
南部が苦笑した。
「プルースト効果?」

加藤が怪訝な顔をした。
「紅茶に浸して口に含んだマドレーヌが口蓋に触れた瞬間、懐かしき昔日がよみがえる、ってやつだな。」
山本が有名な小説の一節を口にした。
「そう、それです。特定の匂いによって特定の記憶が呼び起こされるという現象。その匂いをかいだ時の光景を思い出したり、そのときの感情がよみがえったりというやつですよ。」
南部が解説した。
「なるほどな。いくらほんものそっくりに作ってあるとは言っても、匂いを正確に再現するのは難しいだろうし。」

山本が納得したようにうなずいた。
「嗅覚情報は大脳の海馬や扁桃に送られますが、扁桃は情動をつかさどり、海馬は記憶に深く関係する。つまり匂いは人間の情動や記憶と連動するわけです。」
「で、この肉じゃがもどきは、加藤にとっての『おふくろの味』の記憶と連動しないから、懐かしき昔日はよみがえらないというわけだ。」

二人のやりとりを聞きながら、肉じゃがをほおばり続けていた加藤。空になった皿を前に言った。
「昔日の問題じゃない。肉じゃがには豚肉だ。これは牛肉だ。」
憤然と立ち上がり厨房に入っていく加藤を見送り、見ざる聞かざるで食事を続けた山本と南部であった。

日本海軍発祥の肉じゃが。お袋の味の代名詞。西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的らしい。

31 Jan. 2009

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