二字No. 21「渡航」


「デザートがありますから、食後に1つずつ取ってください。」

食堂の配膳口で声がかかった。先日立ち寄った星で食料の補給がうまくいったらしい。甘いものが好きでなくとも、いつものメニューに変化がつくのはやはりうれしい。

デザートは抹茶アイス。正確に言うと抹茶風のアイスクリーム。
「この間、補給に寄った星で、お茶によく似た木があったのだそうです。それで葉っぱを採集してきて、生活班で抹茶を作ったようですよ。」
南部がアイスクリームをなめながら言った。
「ふーん、それで抹茶風アイスか。コック長もなかなか気が利くな。なんか懐かしくていいよな。」
普段はクールな山本もうれしそうである。
「でもなんで抹茶なんですか。普通のお茶にしておいたほうが、飲むの簡単なのに。」
相原が首をひねった。かなりの量ができたらしく、抹茶を入れた缶にご自由にどうぞと紙を張って、各テーブルに置いてある。
「ほう、相原ともあろう者が知らないのか。」
山本がからかった。茶葉にはさまざまな栄養素が含まれ、特にビタミン類がバランスよく豊富に含まれている。抹茶は茶葉をそのまま粉にして飲むので、葉に含まれる栄養素をそのまま摂取することができる。緑茶は湯で抽出して飲むので、大半の栄養素は茶葉に残ったままで摂取されない。
「つまり抹茶にしておくと、ビタミンなんかを効率よく豊富に摂取できるってわけですね。」
相原が感心したように言った。
「昔々には、日本人は緑茶を飲んでビタミンCを採っていたので壊血病になりにくいって言ったそうだ。壊血病は大昔には船乗りに付き物と言われたらしい。今時はサプリメントがあるから罹る奴もいないだろうが、どうせビタミンを取るのなら、サプリメントよりお茶のほうが風情があっていいわな。」
山本は笑った。

そんな会話を聞きながら、南部は、テーブルに置かれた缶を手に取った。蓋を取るときれいな粉がこんもりと盛られている。まるで棗の中に抹茶を履いてあるみたいだ。そういえば昔、棗で大失敗をやってしまったことがあった。姉が催したお茶会で、12くらいの頃だったかな…。

「お道具の拝見をお願いいたします。」
正客の請いに応え、姉は棗と茶杓を拝見に出した。
いつもは姉に憎まれ口ばかりきいている僕だったが、きれいに袱紗を捌く姉をちょっと見直す気分で、きれいな晴れ着に身を包んだ姉の友人たちに混じって、若干緊張して席に連なっていた。その時使われた棗は、姉が宝物のように大事にしていた住吉蒔絵の逸品で、南部家にある道具類の中でも5本の指に入る貴重なものだったと思う。黒地に金の細かい蒔絵が息を飲むほど美しい。蓋には、住吉大社の社殿、松、波が描かれ、胴の部分に鳥居、反橋、松原。そして波を表しているのだろうか、一面に細かな金が蒔かれている。見事な作だった。
姉の宝物だったから、僕自身、その棗を手にとるのは初めてだったし、茶席そのものの緊張もあったのだと思う。上座から回ってきた棗を拝見した後、詰を勤める姉の友人に回すところで、引っくり返して、中に入っていたお茶を詰の膝前にぶちまけてしまった。慌てて拭おうとしたけど、抹茶というのは細かく柔らかい粉なので、擦れば擦るほど畳に塗りこまれる形になる。手伝おうとしてくれた姉の友人の晴れ着に、あせって抹茶だらけの手を付いてしまい晴れ着は台無し。そして最悪だったのは、立ち上がった途端、足がしびれていて転倒し、棗の蓋の上に手をついて割ってしまったこと。
姉はしばらく口をきいてくれなかったし、「金輪際、康雄とはいっしょにお茶席に出ない。」と宣言されて、実際その通りに実行した。でも艦に乗り組む数日前、突然呼び出されて、何かと思ったら僕のために一服点ててくれた。その頃はもう昔のような立派な茶室はなく、座敷に簡易に道具を並べ、家族だけを集めてのことだったが、久しぶりに見る姉のお手前は以前よりもいっそう美しく冴え冴えとしていて、思わず見惚れた。そしてその席に出てきたのが、僕が壊したあの住吉蒔絵の棗。きれいに修復されて相変わらず見事な美しさだった。
古代より渡航守護の神として人々が海の旅の安全を祈願した住吉大社。古くは遣唐使など大陸へ渡航する人は、住吉の神に旅の安全を祈願して出発するのが慣例であったという。その住吉大社の風景を模った住吉蒔絵で、姉は僕の旅の安全を祈って茶を点て、お守りにと言って大事にしていたその棗をくれた。

「せっかくですから、せっせと飲まないといけませんね。」
相原の声に、南部は引き戻された。
「子供の頃、お袋が抹茶ミルクを作ってくれたことがありますけど、あれを作ってみましょうか。」
と相原が言うのに対し、山本が言った。
「何、子供みたいなこと、言ってんだ。せっかく抹茶もどきがあるんだぜ。ここはひとつ、南部にお手前の所望だ。できるんだろ。今、蓋を取ったときの手つきで、心得はあると見た。」

「やれやれ、山本さんには適いませんね。あまりまじめにやってませんから、亭主やるには自信がないのですけど。」
「じゃ、半東やれる奴の心当たりがあるから、それでどうだ。」
「そうですか。ならひとつ、やりますか。」
ではあの住吉蒔絵の棗を使ってみましょう。姉のためと仲間のために。

8 Jun. 2008

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