二字No. 29氷点


平穏無事な航海が続く。何よりなことである。

しかしそういう時、戦闘関係者は暇である。忙しい部署の方々には申し訳ないが、はっきり言って時間を持て余す。当直やら、訓練やらそれなりに予定はあるし、個々人で自主訓練を行う者もいるが、やはり暇である。事が起こった場合の極度の緊張と、何事もない時とのギャップ、これはあまりにも大きい。
だからその日の南部、多少気が抜けて、メランコリックな気分になったからといって、砲術長とはいえ人の子、咎めることはできないだろう。

暇な時間のつぶし方は人それぞれだ。自室でごろ寝する者もいれば、食堂でお茶する者もあり。まじめに勉強している者もいれば、他所の部署に遊びに行って邪魔にされて追い出される者もいる。南部は、大抵は自室でくつろぐことにしている。読書をしたり、自室のモニタで映画を見たり。艦内のデータベースにアクセスすれば、自室のPCでさまざまな映像を楽しむこともできる。

その日、何だかメランコリックな南部は、古い映画を見てみたくなった。
どうせなら思いっきりレトロな映画、そう、地球人類が初めて宇宙を飛ぶことに成功した時代の映画にしよう。確か1960年代。今、2200年だからざっと240年。思えば人類も遠くまで来たものですね。
データベースを検索し、今の気分にしっくりくる映画を探す。「氷点」、これにしよう。お茶を淹れてと。

医師の幼い娘が殺された時、医師の妻は別の男といっしょだった。医師は妻の不義を疑い、妻への復讐をたくらむ。医師は、娘を殺した犯人の生まれて間もない女の子を養女として引き取る。何も知らない妻は女の子を溺愛するが、ある日、夫の日記で真実を知ってしまう。純真な養女への妻の憎しみ。医師の妻への愛憎。義理の兄妹として育った兄の想い。複雑な感情が絡み合い…。

お茶を飲むのも忘れて画面に没頭する南部。

「氷点」とは、何があっても前向きに生きようとする娘の心がついに凍ってしまう瞬間。それは単に義理の母の仕打ちに傷ついてということではなく、人間が生まれながらにして持つ「原罪」に気付いてしまったこと。

傍らのボックスから矢継ぎ早にティッシュペーパーを取り出して、眼鏡をはずして涙と鼻水にくれる南部。
人類は148000年光年の旅をするようになったけど、まだろくに宇宙を飛べなかった時代から、高度な精神世界と繊細な感情を持っていたのですね。人類は今も昔も普遍だ。

その日の第一艦橋。本日の当直は相原。
「相原くん、お疲れ様。お茶どうぞ。」
「何ですか、南部さん、気味が悪いですね。まさか毒入りじゃないでしょうね。」
「何てこと言うんです。せっかく労ってあげようと思ったのに。」
「……」
「ところで相原くん、『氷点』って知ってます?」
「はぁ?水が凍り始める温度でしょ。それがどうかしましたか?」
「感動したんですよ。人類がどれだけ進歩しても、変わらないもの、普遍ってあるのですよ。」
「何、言ってんですか。」
「氷点ですよ。普遍なんですよ。感動したんですよ。」
相原はお茶を飲まずに南部の手にもどした。
「氷点は普遍じゃありません。氷点降下って知ってますよね。」
「えっ。」
「水に不純物が混じると凝固点が下がるんですよ。さあ、用事がないんだったら、部屋にもどって休んでいてください。作業の邪魔しないでくださいよ。」高度に進歩した人類は、繊細な感情を理解してくれるとは限らないらしい。とは南部の心のつぶやき。 

    6 May 2008

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