二字No. 30「無響」


ここは工作班の作業エリア。製造、補修、修理を行う工場、各種実験室など、部外者には物珍しい設備が並ぶ。
さて真田を訪ねてやってきた南部。このエリアに足を運ぶのはもちろん初めてではないが、いつもながら物珍しい。無電波室、無響室、残響室…。一体どんな実験が行われているのやらと実験室ひとつひとつの名前を確認してしまう。真田さんってマッドサイエンティスト的なところがあるからなというのは南部の内心の声。

「真田さん。南部です。この間のデータですが…」
真田の執務室のドアをノックして中に入ると先客がいた。
「あれ、太田。珍しいな。こんなところで会うなんて。」
毎日、第一艦橋で顔をあわせている3人である。しかし真田の部屋で出くわすというのも珍しい。しかもお茶を飲んで話がはずんでいる様子である。
「おお、南部か。時間があるのだったら、お前もどうだ、コーヒー。」
「いただきます。」

「いつも思うのですけど、ほんと、いろいろな実験室がありますよね。」
南部がコーヒーを旨そうに飲みながら言った。真田の淹れるコーヒーが旨いということは、一部の乗組員の中では知られた事実である。
「今、その話をしていたところなんだよ。南部。」
太田が苦笑した。
それぞれ皆、試験や実験を行うために作られているため、かなり特殊な環境が作り出されている。例えば無響室。機器が発生する音の大きさや周波数特性を調べたり、聴覚の特性、つまり聞くことのできる最小の音の大きさや周波数のよる聞こえ方の違いなどを調べるための設備である。音の反射を無くすために、部屋全体は吸収材で覆われ、外とは2重の壁で仕切って音の進入を防いでいる。

「音が反射しないってやっぱり感覚が変になりますよね。訓練学校で無音室に長期滞在というのをやってるけど、やっぱりいいもんじゃないよな。
太田が言った。
「確かに。でも実際に艦外に出て作業をする場合は、ヘルメットを装着して通信機器やら何やらで繋がっているから、音の聞こえ方が違うとか、何も聞こえないという感覚はあまりないですもんね。
南部も同調した。
「しかし、無響室では自分の声が反射しない。いつもと同じ大きさの声を出しているつもりでも、自分の声が頼りなく小さく聞こえる。
真田が笑った。余韻や雑音の無い世界。耳が圧迫された感じになり、シーンとした音が聞こえる場合がある。これは脳内の血流の音が聞こえるのだと言われている。
「うーん、それってやっぱり結構ヘビーですね。いくら静かに思えても日常の空間には雑音はあるわけだし。完全に音が遮断されて、自分の血流音が聞こえるとなると、不安になったり、気分が悪くなったりするんじゃないかな。」
と、太田。
「大抵は無人実験だし、無響室に長くいるのは皆、嫌がるんだけどな。あ、ひとり例外がいる。」
真田が苦笑した。
「誰です?」
南部と太田が声をそろえてたずねた。
「相原だ。あいつは実験に集中すると他のことはどうでもよくなるらしい。」

「そう言えば、昔の牢獄って、そんな感じだったんじゃないかな。」
南部が思い出したように言った。子供の頃、古い時代の牢獄の見学をしたことがある。サンクト・ペテルブルグにあるペトロパブロフクス要塞の中に主に政治犯を収容した牢獄があった。そこに懲罰用の独房があり、試しに入ってみることができた。狭い空間に入り外からと扉を閉めた時の何とも言えない感覚。真っ暗な闇の中で、音はまったく聞こえず、長時間こんなところにいたら気が狂うんじゃないか、なるほど懲罰用の部屋だと感心したものだ。
「あ、俺も子供の頃、網走監獄の博物館に行った時に、独居房に入ったことがあるけど、あれはけっこう怖かったなあ。」
太田も大きく頷いた。分厚い煉瓦の壁で窓はなく扉は2重。光はまったく入ってこない。ほんとうに閉じ込められているのではないとわかっていても、けっこうな恐怖感が押し寄せてくる。

「なるほど。当たり前のことでしょうけど、音と光というのは人間には根源的なものだということですね。これを奪われると大抵の人間は恐怖にかられ、それが嵩じると狂気に到る。」

太田が感心したように言った。
「じゃ今度、相原くんが無響室で実験をしている時、明かりを消してみましょうか。」
南部が悪ふざけを言う。
「だめだめ。そんな事をしたら、仕返しに南部だけ音声遮断か、通信不能って目にあわされるのが落ちだ。」
「だって、相原くんの集中がどこで途切れるか、興味深いじゃありませんか。」

ふたりのやり取りを聞きながら、苦笑を浮かべて2杯目のコーヒーを淹れていた真田。戸棚から取っておきのビスケットを取り出し、皿に並べ、コーヒーに添えてふたりに勧めた。
「音や光よりも前に、牢獄の罰と言ったら、飯を減らされることだろ。まあ、それ食って、今日も元気に当直をしてくれ。」

21 Jul. 2008
22 Jul. 2008改定

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